毒母に悩んだ田房永子さんの著書(漫画)『お母さんみたいな母親になりたくないのに』を読みました。
「母親」×「子育て」の苦悩。
なぜ子ども時代に心に傷を負った女性は、こんなにも「母親」に囚われるのだろう?
田房永子著『お母さんみたいな母親にはなりたくないのに』
この本は“過干渉の毒母”に育てられたエイコが、結婚し、親との縁を切り、子どもが出来たことから始まります。
そしてお腹の赤ちゃんの性別は『女の子』でした。
過干渉な母親に育てられたトラウマから、女の子を育てることへ恐怖するエイコ。
そして生まれた女の子のNちゃん。
自己肯定感が低すぎる母親が葛藤して四苦八苦しながら子育てをするコミックエッセイ。
『母がしんどい』
田房永子氏が有名になったコミックエッセイ『母がしんどい』は、可愛いシンプルな絵と裏腹にかなりディープな内容で、共感力が高すぎる私には精神的にキツイ内容(機能不全家族育ちには)で、飛ばし読みしか出来ませんでした。
ある意味、精神攻撃系の漫画を読みたい方にはオススメ↓
なぜこの本を読んで涙が溢れたのだろう?
私は「子ども関連」には涙腺が弱くなっています。
昔は見れたのに、出産してからは子どもが不幸になる関連の話は、漫画、アニメ、ニュース問わず見ることができません。
しかし、この『お母さんみたいな母親になりたくないのに』を読んで出た涙は
・子育ての葛藤
・親という存在への葛藤
の2種類でした。
エイコ氏は一人っ子で、家は比較的裕福な家庭のようで、毒母は外面の良い過干渉タイプ。
私は3人兄弟で、貧乏のプチネグレクトで育てられたので、著者とは全く真逆です。
私の母は、著者の毒母のようにここまで酷く搾取してくることは無い母でしたが、
・要らないと言ってるのに無いお金を使って何かしら持ってくる
・要らないと言うと少し不機嫌になる
(著者の母は強烈に怒りだす)
などは似ているなぁと思いました。
育てられ方は違えど、幼い頃に傷を追って『自己肯定感が最底辺』の者同士しかわかり合えない内容が、幾つも散らばっていました。
共感した内容がたくさん
共感してなるほどな、と思った箇所を箇条書きにしていきます。
②出産・子育てをすることで世の中のA面B面の世界に気付く
③自分を「ママ」と呼べない
④私はなぜ、ピンクが嫌いなのか
⑤子の愛し方のA面B面
①文鳥のブンちゃんを育てる中で気づいた気持ち
流産を経験してからエイコは文鳥の赤ちゃんのブンちゃんを飼い始めます。
ブンちゃんに対して「死んでしまうのではないか」という『不安』を『過干渉』という形で接してしまいます。
同時に、自由気ままに飛び回るブンちゃんを見て心配しながら
・「私はこれだけしてやってるのに、勝手なことをして困らせないでよ!」
と感じてしまう。
その心の裏側は…
・私を困らせないで
・私のことを忘れて自分だけ楽しくなるなんてズルい
そして「毒母も自分に対してこういう気持ちだったのだろう」と気付きました。
ーーーーーーー
これには、ハッとしました。
私も余裕がないと、子どもに対して、このような気持ちを持ってしまいます。
それは恐らく『感情を抑制された子ども時代の自分(インナーチャイルド)』と、目の前にいる『自由気ままにワガママ放題の子ども』を重ねて見ていたからなんですね。
「自分は許してもらえなかった(と思い込んでいた)のに、私の目の前にいる子どもは『なぜ』こんなにもワガママなんだろう。そして『なぜ』母親の私は、このワガママを許さなければならないの?私は我慢できたのに、『なぜ』あなたはできないの?……」
私の子ども時代と、
私の子どもは、
全く違う人間なのに。
幼い頃に十分に愛情を受けてないと感じたまま育つと、「子育て」という機会を通して、無意識に“目の前の子ども”と“自分の子ども時代”を重ねて苦しくなることが、軽度のアダルトチルドレンであっても、母親達に起こりやすいと言われています。
②出産・子育てをすることで世の中のA面B面の世界に気付く
著者の言う『A面/B面』の考え方に「なるほど!」と感心しました。
世界のA面とは、表向き側。
世間・政治・経済・法律・仕事・世の中の決まりやルールのこと。
対するB面とは、人間の力ではどうしようもない自然の力(赤ちゃん、妊娠、悪阻、出産他)や、自分の内側の世界のこと。
本来自分がやりたいことや、自分の気持ちのこと。
出産を経ると、様々な価値観がガラリと変わりました。
妊娠中までの自分と、出産後の自分は同一人物ではないというか……脳の構造が“母親脳”になるので、考え方などの価値観の全てが変わったなと感じています。
今まで『A面』に合わせて生きていかなければならなかったのに、子育てという『B面』に目を向けなければならないこと。
そして病院や保育園、育休から復帰してA面とB面を行き来する毎日。
この母親たちが抱える「世間の自分」「母親としての自分」への切り替えに対して、違和感というか不思議な気持ちになっていたので、この本を読んでなるほどと気づかせてもらいました。
そしてこのB面こそが、子どものありのままの姿(本能)であり、A面しか認めてもらえなかった私たち(毒親育ち)は、B面を“当たり前に”全力でいる子どもに対する戸惑いを持ってしまうのではないかと思います。
③自分を「ママ」と呼べない
著者は「ママ」と自分を呼べないでいました。言おうとすると、喉が詰まる感覚がありました。
著者はこれを「誰かの母親になることが怖いんだ」とありましたが、私は著者とは違った意味で『ママ』というワードを使えません。
私の場合は「自分は『ママ』と呼ばれるようなキャラじゃないから」という理由で「お母さん」に統一してきました。
特に子ども達は男の子だから、大きくなっても困らないように…という理由もあります。
大泉洋は未だに家ではパパ・ママ呼びだそうです。(水曜どうでしょう好き)
しかし、実際本当のことを言うと……、私自身が「ママ」と呼ばれることに、違和感、気持ち悪さ、恥ずかしさを感じているからです。
記憶にあるのは、小学校低学年頃からずっと「ママ」という響きが苦手でした。
「ママ・パパ」と呼ぶ同級生を「恥ずかしい」と思っているフシもありました。
(今は他人が使ってもなんとも思ってない)
“ママ友”や“ママコーデ”などの言葉も苦手です。
これは私の何かトラウマ的な何か原因があるのか……?
ーーーーーーーそして調べたら、私の感覚と近い方がいらっしゃいました。
「ママ」という呼び名への「うわ、気持ち悪い」という抵抗感を考察してみた(リンク)
引用させてもらうと
「ママ」という響きにはどこか子どもを育てることが非現実的で、フィクション的で、やさしく守られた空間で、柔らかな子どもと朗らかに過ごす、というイメージがあり、何か現実の親子の姿とかけ離れているように感じていたのです。
ふむ、なるほど。
確かに私もそれは何となく感じていたことです。今の私もとい、過去の私とも縁の遠い存在が「ママ」です。
この方が、こう感じるに至ったワケは…
・自分が上手く甘えることができなかったから
・きちんと向き合ってくれなかった親への怒りがあったから
・安全基地をつくってもらえなかったから(つくってもらえなかったと感じているから)
ここで完全に腑に落ちて一致しました。
やはり「ママ呼びが苦手」な問題は、幼少期のトラウマに近い心の傷=アダルトチルドレンが原因であることがわかりました。
でもそんなワタシは、家族の中で『私』でいられなくなるから、『私』は“ちゃんとした”いい子、一人でなんでもできる子になろう。
『私』が作った仮面を被ることで、ワタシは「一人でなんでもできる子、優しい子、しっかり者、大人びた子」という人格を作っていました。
私は早くから“子どもでいることを罪”と感じるようになっていたのです。
と同時にいつも「自立しなきゃ」と急き立てられていた感じです。
父はクズで、母は仕事を頑張ってくれてるけど金銭管理できない浪費家で、メンタルケアをしてくれる家庭環境ではありませんでした。
それよりも自己犠牲が強すぎて「母を守りたい」一心でした。
そこでワタシは、子どもらしさ・幼稚さを感じさせる「ママ」という言葉を嫌いになる、同級生のことを「恥ずかしい」と感じることで、本当の自分(B面)の心を守ろうとしていた…。
それを大人になっても引きずっていました。しぶといですね〜、アダルトチルドレンは。
合わせて読む
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④私はなぜ、ピンクが嫌いなのか
私は子どもの頃からずっと「ピンク」という色は苦手でした。
パーソナルカラー的観点としても、私には『The・ピンク』は似合わないので、「本能的に知っていたのか?」と思っていたのだが、それはさすがに違う気がする。
お母さんみたいな母親になりたくないのにでは、この「自分の娘にピンクを着せたくない」葛藤を読んで、私の琴線にそっと触れてきたようで、涙が出てきた。
もしかしたら、私も「ピンクが好きな女の子」だったかもしれないのだ。
【名前への憧れ】
保育園時代、「えりか」「まりな」みたいな、キラキラした3文字の名前が良かった!と思っていた時期があった。
これは小学校入学頃には消えた。
【キラキラしたオモチャ】
アッコちゃんの「テクマクマヤコン」や、セーラームーンのスティックのような、キラキラしたオモチャが欲しかった。
キラキラしていてピンク。
この頃の私は確かに女の子らしいものに『憧れ』があった。
でも、万年貧乏な我が家は、そんな高価なおもちゃは買ってもらえることは無かった。
著者の場合は、“かわいいもの”を欲しがった幼少期に、母親が周りの友人とバカにしてきたことから、一種のトラウマに囚われ始めたようだった。
私の場合、既に買ってもらうことすら諦めの境地に入っていた。
一応欲しいことは伝えたと思うが、叶うことはない。リカちゃん人形が欲しかったのにバービー人形だったし。
バービーの着せ替えも買ってもらったことがないから服は一着だけ…。
だから“我慢”を覚えるのは早かった。
私には『不要なもの』と思うことで、心を守っていたのだろう。
【スカートが履けなかった】
私は小学5年生まで、スカートが大嫌いな子どもだった。
初恋をして、姉のお下がりのロングスカートを引っ張り出して履いた。
それまで、自分で服を着替えるようになってからはスカートは本当に一回も履いたことがなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
…と私の振り返りは一旦ここまでにします。
著書では、Nちゃんがピンクを好き!と言ってピンクにこだわる様子に衝撃を受けます。
『幼少期の女子がピンクを好きになる』ことを“「女」という自分が属する性を確認している”、アイデンティティ確立のための重要な作業ではないか?としました。
これに非常に納得しました。
「女の子がピンクを好きになるのはなぜか」という本も出ていました。
しかし私は、ピンクという色は『嫌い』だった。
ハート柄や花柄は間違いなく選ばない。
目がうるうるしたゆるキャラも苦手。
なにか選ぶにしても、キティちゃんやマイメロは選ばない。キャラのない星柄や、空柄などが好きだった。
もう、「そういう子もいるだろう」で済ませられない。この本を読んで私は、この著者の葛藤を読んで涙を流したのだから、何か理由があるはず。
この原因究明をしていく。
「ママ」が苦手と一緒だった
③の「ママ」という呼び名への抵抗と、基本的には同じだろうと考えた。
まず、
『女子=ピンク』
という図式に反したいフェミニストではない。ジェンダーどうのの話は関係ない。
ピンクという色のイメージは
・かわいい
・可憐
・優しい
である。
『一人でなんでも出来る、大人びた私』という仮面を被った私には“不相応”である、と認識したのだろう。
『美しい、キレイ』は大人。
『かわいい』は、ある意味「幼さ」を意味する。
小学校一年生の頃にはすでにこの“仮面”を被っていた私は、大多数の女子が好きになる『ピンク』という『かわいい』を避けることで、“大人な自分”を作り上げていた。
スカートも、フリルも、レースも、花柄も、全てピンクと同じ理由。
母から褒められた経験を思い出せない、「否定」「謙遜」しか知らない私は、自己肯定感も育っていないので、「かわいいもの」は自分には似合わないと思い込んでいた。
この件は著者とも似ている。
著者は選ぶものを「センスがない」と言われたり、「顔がでかい、手足が短い」と言われ続け、醜形恐怖症のようになっていた。(『母がしんどい』より)
周りの大人との安全基地を築けない私は、早くから『大人』になって“一人前”になろうとしていた。
私は“稚さ(おさなさ)”を捨てなければ、『私』ではなかったので、それらを嫌うことで自分を確立させようとしてきた。
こんな理由から、ピンクという色を嫌いになったのだ。と結論。
⑤子の愛し方もA面B面
毒母がA面しか見ていなかったことに、辛さを感じていたのだと気づいたエイコ。
私のB面を認めて欲しかった…と。
私の母も言っていた…
「あなたのため」という親からの呪い。
『子どもの気持ちを尊重する』とは軽々しく言えるけれど、本当に子どもの気持ち、感情、意見、気質、発達、脳の発達の未熟さのこと…
でも、これらは子どもの力だけではどうしようもできなくて、大人の力を借りなければならない自然の摂理を、真に『尊重』してあげられているのだろうか?
合わせて読む
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毒母と子育ての苦悩の連鎖
子育てに関する一風変わった想い、著者と同じ気持ちであると気付きました。
・私は子どもの存在を認めてあげられる“良い母親”になるんだ!
と、著者が目をギンギンにさせながら「子どものB面を認めてあげる私、イイ!!」という感情が所々で出てきます。
これは正しく私がドツボにハマッていたことと同じでした。
親子の愛情の供給、愛情の循環が上手く行ってないまま育てられたから、私は親とは正反対の母親になろうとした。
正反対なので、なるべき『見本』がありません。
私は本を読みまくり、著書は講演会、セラピー、本をとにかく読むなど、手探りで毒を抜いていきました。
取り分け毒親育ちは、二極化する。
同じ遺伝子を受け継ぎ闇堕ちするか、その遺伝子を跳ね除けようと反面教師にするか。
私と著者は後者です。
そして親に似ないよう、似ないように気をつけます。
もっと気楽に子育てできたらいいのに、なるべき『見本』を知らないので、とにかく自分の思考だけが頼り…。
エイコも、子どもを抱えながらA面、B面のどちらも落っこちないように、周りのサポートを得ながら踏ん張る姿が描かれていました。
この踏ん張りは、毒親育ち以外の方には理解できないかもしれません。
現にAmazonレビューに「A面B面を行き来すればいいのに」と書かれていました。
そんな器用にできたら、こんなに苦しい思いはしないのですが(^_^;)
確かに、寛解した今だからこそ言える。
もっと肩肘張らず子育てをすればいい。
『自分軸』さえ持てたらそれでいい。
そっちの方が子どもは安心できるよ。
こう思えるようになったのは、ここ2〜3年の話。まさに母の死を経験し、アダルトチルドレンと向き合ってからです。
私という『母親』は現在もアップデート中!
自分が母親だなんて、なんか変。
実は私は、長男を産んで数年経っても
「自分が『母親』だなんて、なんか変。」
「私は、大人になれているのだろうか?」
という気持ちがずっとありました。
あれほど「早く大人になりたかった」私は、大人の自分に違和感がありました。
大人になったら「本当に自分は大人なのか」と自信が無かったのです。
大人に頼らず大人のフリして、子ども時代に目一杯子どもでいることを諦めたら、こんなところに弊害が。
子どもに大人の役割をさせたらダメと言われる所以がこれです。
子どもは子どもらしく、目一杯子どもでいるのが仕事なのです。
私の場合はさらにややこしく、『大人びた私の仮面』をつけながら、可愛くないと思われたくないから「子どもでいるための演技をする」という合わせ技を使っていました。
子どもらしくない子どもは可愛くないと、本能的にわかっていたからですね。
さいごに
「大人は“ちゃんとした人間”であるべき」
「親は自分を犠牲にしてでも子どもを無条件に愛するべき」
上記のようなアダルトチルドレンの完璧主義的思考は、根を生やし、自身の身を守るために認知をガチガチに固めました。
このガチガチの認知は、この数年で子育てを通して自分と向き合うことで、徐々に綻んでいきました。
ピンクが嫌いだった過去も、キラキラが本当は好きだった過去も、全て心の底に沈んでいたことを著書は拾い上げてくれました。
田房永子さんの独特の視点のギャグも、かなり面白くて笑ったので良かったら見てみてください!
お読みいただきありがとうございます。
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